世良修蔵は幕末の長州藩士、官軍の奥羽鎮撫総督府下参謀として会津藩討伐を強硬に主張したことから、会津の救済嘆願を反故にされた仙台藩士らの怒りを買い、慶應四年戊辰歳(1868年)閏4月20日の未明、福島城下(福島市北町)の旅籠金澤屋に宿泊中のところを仙台藩士、福島藩士らにより襲撃され、阿武隈川の河原で斬首されました。行年34歳。
世良は、奥羽諸藩(仙台藩・米沢藩)による会津藩救済嘆願にも聞く耳をもたず、あくまで武力討伐との強硬姿勢を貫いたことから、次第に仙台藩士らから会津への穏便な措置を阻害する元凶と見なされるようになりました。世良暗殺を決定的ならしめた史実は、福島城下の旅籠金澤屋に滞在していた世良より、当時新庄にいた下参謀・大山格之助宛てに閏4月19日に記した密書を、送達の依頼を受けた福島藩士を通じて入手した仙台藩士が激高し、世良の暗殺実行を決意させたと言われています。その密書には「奥羽を皆敵と見て、武力をもって一挙に討伐する」旨が記されていました。
世良の死をきっかけとして、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との戦が始まる事となったのです。この官修墳墓は、戊辰戦争の後、福島入りした官軍により慰霊碑として建立されました。石碑には世良修蔵のほか、この事件で落命した同じ長州藩士勝見善太郎、松野儀助、従者繁蔵の四柱の名が刻まれています。明治9年(1876年)6月の明治天皇東北御巡幸の際には、随行として福島を訪れた明治政府の参議・木戸孝允が世良を偲んだ事が日記に記されています。
建立された場所は、当時は神社の裏側(北側)の国有地にあり、隣接する福島稲荷神社が管理を委任されていました。大正5年に石碑が建て替えられ、戦後、神社の境内地に編入され、境内の北東角(現在地)に移されました。この霊神碑を囲む四基の石灯籠のうち、碑の前方に建てられた2つの石灯籠の向かって右側は薩摩藩士・黒田了介(後の清隆)が明治18年に、左側は長州藩士・品川弥二郎が明治21年に寄進・建立しました。黒田と品川は元々奥羽鎮撫総督府の参謀に就任しましたが、その後その任を辞退し、代わって世良が参謀として東北に赴任することになったとの因縁があります。後方の2つの石灯籠は、右が橘正風、左が橘正郎が建立したと伝えられています。この2人は世良が殺害された後、同じく仙台藩士によって斬られた長州藩士・野村十郎の兄弟にあたり、世良と同じ奇兵隊の出身者です。
また、霊神碑うしろの歌碑は橘正風(山城屋和助)が建立したものと伝えられ、弟を亡くした兄の気持ちが偲ばれます。
「しのぶれば その五月雨の夕まぐれ なみだの川のなみならぬかな」
現在に至るまで春秋の彼岸には福島稲荷神社の神職により慰霊祭が厳粛に執り行われているほか、折々に花を手向ける人は絶えず、世良の出身地山口県から訪れる人々は、東北の恨みを一身に受けて敵地で没した世良に対し、地元の人々によって今に至るまで手厚く慰霊が続けられていることを知り、一様に感銘を覚えるといいます。
世良の墓は、この地の他に宮城県白石市陣場山と、山口県周防大島町椋野に招魂碑があるほか、御霊は当地信夫山の福島縣護國神社に戊辰の役戦没者768柱の一柱として霊璽簿筆頭で祀られています。