今から千年の昔、平安時代の京の都に安倍晴明という天才陰陽師(おんみょうじ)がいました。その出自には不思議な伝説があります。当時、阿倍野に安倍保名(あべのやすな)という男が住んでいました。あるとき、和泉(いずみ)の信田明神(しのだみょうじん)にお参りをすませて帰ろうとした保名の元へ、狩りで追われた白狐が逃げてきて、これをかくまってあげました。その後、白狐は女の人になって、保名のところへ来ます。名前は葛乃葉と名乗りました。ふたりは結婚して阿部神社の近くに住み、やがて子供が生まれ、安倍童子(あべのどうじ・晴明の幼名)と名付けました。狐は古来から、霊力を持った動物として崇められており、白狐であった母親を持つ晴明は、天才陰陽師として君臨することになるのです。
朝廷の陰陽尞に仕えた晴明は、優れた才能により、安倍家を賀茂家と並ぶ陰陽師の家に押し上げました。その伝説は時代と共に広がり、浄瑠璃や歌舞伎、能にも取り上げられてきました。晴明を始めとする陰陽師たちが携わった陰陽道とは、暦学や天文学の知識を生かして呪いや占い、祭りをする宗教です。中国の陰陽・五行思想を取り入れて、平安時代の日本で成立しました。陰陽道は朝廷や貴族に信奉されただけでなく、鎌倉時代以降は幕府や一般の人々にまで浸透し、明治維新を迎えて禁じられてからは、いろいろな習慣や行事として暮らしの中に伝わってきました。
陰陽師には、二面性があるとされます。一つは中国伝来の陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)によって天体を観測したり暦を作成する科学者的側面。そしてもう一つは、式盤を使って吉凶を占ったり、自在に式神(しきがみ、陰陽師の意のままに動く鬼神)を自由に操る呪術師的な側面です。
京都の安倍晴明神社に伝わる『安倍晴明宮御社伝書』には、安倍晴明が亡くなったことを惜しんだ上皇が、生誕の地に晴明を祭らせることを晴明の子孫に命じ、亡くなって二年後の寛弘四年(1007年)に完成したのが、安倍晴明神社であると記載されています。