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福島稻荷神社の由緒は、社伝によれば第66代一条天皇の永延元年(987年)、当時朝廷に重用された陰陽道博士従五位下、安倍晴明が詔を奉じて奥羽下向の際、吹島の里(後に福島と改む)にさしかかり、西には吾妻山が空にそびえ、北には信夫山が平原の中より屹然として突出し、南は阿武隈川の清流洋々として東流し、山水の風致、自然の景勝に目を見張るのみならず、地味肥沃にして農耕に適し、将来大いに有望な地相であるとしてここに社を建て、衣食住を司る豊受比売大神(伊勢神宮の外宮の御祭神)を勧請し、此の里の総鎮守としたことに始まります。
承安元年晴明の孫清明が社殿を改築、のち天正、慶長年間兵火に会い焼失しましたが、寛永元年板倉重憲が修営、さらに福島十万石の藩主堀田正仲(元の大老、ゆえあって福島藩へ天封)は元禄2年(1689年)に本殿を、同5年には拝殿を復興造営したことは今に棟札が残されており明らかであります。また元文5年(1740年)板倉勝里が社殿を造営遷座した記録があるなど、江戸時代には福島藩の鎮守とされ、代々の藩主の尊崇を集めてきました。明治28年に県社に列しましたが、その後明治35年の大暴風災害に遇い、倒木により本殿、玉垣が倒壊しました。
この絵はがきは、当神社が昭和13年社殿改築をする以前の正面参道から見た風景で、恐らく昭和初期に写されたものと思われます。正面の拝殿(江戸末期、元禄年間築)は、現在絵馬殿として保存され、左手に見える社号標(明治28年建立)は、西参道入口に移して、戦前、戦後の経緯を刻んだ銘板とともに記念碑として残されています。正面の石鳥居は、損傷が進み危険な状態となったため、昭和30年代に解体されましたが、その後、明治神宮当局のご配慮により、神宮東西外玉垣御門に建つ二基の鳥居を拝領して、昭和41年、盛大なお木曳き行事を斎行、正面参道と西参道に建立しました。鳥居扁額の文字は、当時の明治神宮甘露寺受長宮司にご揮毫を頂いたもので、現在この由緒ある鳥居は、明治神宮ご創建当時を偲ぶ貴重な存在になっています。この絵はがきは、社殿改築以前を知る貴重な一枚です。
社殿の復興は大正天皇御即位記念事業として始まりましたが、その後さまざまの紆余曲折を経て、昭和9年に改修事業に着手、昭和13年福島市民の奉賛により現在の社殿が竣功をみました。
しかしながら半世紀に及ぶ歳月を経て、近年お屋根の傷みが目立ち雨漏りの個処も生じ、又参道の損傷等も大きくなり、貴重な御社殿の奉護、参拝者の安全確保の面からみて速やかな改修工事の必要に迫られておりました。時恰も昭和62年が御鎮座一千年の佳年に当たることから、この機会に記念事業の一環として奉賛会を組織し、御社殿屋根葺替え並びに参道改修工事を実施致すことと相成りました。諸工事も明治神宮営繕課の監理指導のもと順調に進捗し、昭和62年4月着工以来2ヶ年を以て「昭和の大修理」は見事竣功を見るに至り、平成元年10月には滞りなく竣功奉告祭を斎行致しました。引き続き御大典記念事業として、重文級の絵馬殿(旧拝殿)、神楽殿、手水舎の屋根替え、鳥居の神号額、飾り金具の修理を実施、平成3年秋に竣功をみております。
今から千年の昔、平安時代の京の都に安倍晴明という天才陰陽師(おんみょうじ)がいました。その出自には不思議な伝説があります。当時、阿倍野に安倍保名(あべのやすな)という男が住んでいました。あるとき、和泉(いずみ)の信田明神(しのだみょうじん)にお参りをすませて帰ろうとした保名の元へ、狩りで追われた白狐が逃げてきて、これをかくまってあげました。その後、白狐は女の人になって、保名のところへ来ます。名前は葛乃葉と名乗りました。ふたりは結婚して阿部神社の近くに住み、やがて子供が生まれ、安倍童子(あべのどうじ・晴明の幼名)と名付けました。狐は古来から、霊力を持った動物として崇められており、白狐であった母親を持つ晴明は、天才陰陽師として君臨することになるのです。
朝廷の陰陽尞に仕えた晴明は、優れた才能により、安倍家を賀茂家と並ぶ陰陽師の家に押し上げました。その伝説は時代と共に広がり、浄瑠璃や歌舞伎、能にも取り上げられてきました。晴明を始めとする陰陽師たちが携わった陰陽道とは、暦学や天文学の知識を生かして呪いや占い、祭りをする宗教です。中国の陰陽・五行思想を取り入れて、平安時代の日本で成立しました。陰陽道は朝廷や貴族に信奉されただけでなく、鎌倉時代以降は幕府や一般の人々にまで浸透し、明治維新を迎えて禁じられてからは、いろいろな習慣や行事として暮らしの中に伝わってきました。
陰陽師には、二面性があるとされます。一つは中国伝来の陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)によって天体を観測したり暦を作成する科学者的側面。そしてもう一つは、式盤を使って吉凶を占ったり、自在に式神(しきがみ、陰陽師の意のままに動く鬼神)を自由に操る呪術師的な側面です。
京都の安倍晴明神社に伝わる『安倍晴明宮御社伝書』には、安倍晴明が亡くなったことを惜しんだ上皇が、生誕の地に晴明を祭らせることを晴明の子孫に命じ、亡くなって二年後の寛弘四年(1007年)に完成したのが、安倍晴明神社であると記載されています。
福島市には、福島稲荷神社以外にも晴明伝説が伝えられています。杉妻大明神と、晴明塚、道満塚の伝説です。
昔、神亀年間に笹木野村に大きな杉の木がありました。田畑が日影になるので、役所に訴えてこれを切り倒しました。ところが大杉の精(魂)が朝廷に祟りをして、天皇は病気になってしまいました。朝廷は安倍晴明と蘆屋道満(あしやのどうまん)の二人を東奥(福島)に遣わして、天皇の病気が治るように祈らせました。二人は祟りをなだめ、杉の精を神として祀りました。これが杉妻大明神であると伝えられています。
晴明塚は安倍晴明の功を称え、労を謝して祀った塚といわれ、広い境内を持っていた羽黒山真浄院(清明町)の境内にあったと伝えられていますが、現在は確認できません。道満塚は蘆屋道満が祈祷した祭壇とされ、太田町ガード西南付近にあったと言われ、道満塚の跡には愛宕神社が祀られていましたが、東北新幹線の建設工事により、移転しました。